コンテンツにスキップする

山一破綻20年:OBら語る信用喪失の恐怖、カネ余りでも消える資金

更新日時
  • 「顧客や社会に支持されていなかったからつぶれた」-元社員
  • 異次元緩和で凍てつく金融、次の危機への道はきれいに敷かれた

「自主廃業と出ています」。1997年11月22日未明。インターネットでいち早く報道を見た山一証券ロンドン支店の後輩からの電話は、信じられないというような戸惑いを含んでいた。債券トレーディング部で課長を務めていた伊井哲朗氏(現コモンズ投信社長、57)は「昨日、ムーディーズの格下げでほとんどご臨終だと言われているんだ。自主廃業の意味はよく分からないが、そういうことだと思う」と淡々と応じた。

Aftermath Of Yamaichi Securities Files For Voluntary Closure

自主廃業発表の翌日、山一証券・名古屋支店前に集まった人々

Photographer: The Asahi Shimbun via Getty Images

  当時の伊井氏は、顧客の売買仲介でポジションを抱える必要がある業務の性質上、資金繰りの急速な悪化を肌で感じていた。週末を控えた金曜日の21日夜、米格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスが山一証を投資不適格(ジャンク級)に格下げ。資金調達の道が閉ざされたと感じた。居酒屋チェーンで上司らと4人、ささやかに「もう終わったねという飲み会」を開き、誰からともなく早めに帰途に着いた。

  97年11月24日、20年前の今日。四大証券の一角を占めた山一証券が自主廃業を決定した。負債総額約3兆2000億円は当時、戦後最大の倒産劇だった。1897年に創業した老舗企業で、バブル期に野村証券などライバルに追いつくために規模を急拡大。大口顧客に対する損失補填(ほてん)を「飛ばし」とされる不透明な簿外債務で処理し、市場の信頼を失った。伊井氏は旧大蔵省の意向やトップの経営判断などではなく「本当の意味で顧客や社会に支持されていなかったからつぶれた」と振り返る。

Masahito Tachikawa

立川正人氏

Photographer: Takako Taniguchi/Bloomberg

  会社の外で山一証の破たんを見届けた元社員もいる。企業の合併・買収(M&A)助言会社レコフの元社長、立川正人氏(73)は22日、「自主廃業で検討入る」と打った新聞の見出しを見て「当然だ、遅かった」と思った。「だけど社員はどうなる。自主廃業はひどい」と怒った。山一証営業企画課長だった86年、「飛ばし」の存在を知り、「認められない」と声を上げた。上層部が耳を貸すことはなく、上司の吉田允昭氏と追われるように退職。87年12月、2人でレコフを立ち上げた。

「過剰な安定」

  その後、金融機関の不良債権は一掃され、金融システム安定化のための制度も整備された。日本の金融機関の健全性は格段に高まったように見える。だが、山一証OBでもあるソニーフィナンシャルホールディングスの石井茂社長(63)は「リーマン危機は100年に一度と言われたが、少なくとも日本経済では10年ごとに何らかの津波が起きている」と警告する。97年当時の日銀理事で、98年に最後の日本長期信用銀行頭取を引き受けたセブン銀行の安斎隆会長(76)も「危機はどこから火を吹くか分からない」と警戒を強める。

GDP日銀B/SM&A総額都市銀行数地銀数
1997年457兆円58兆円2兆円1064
2016年524兆円520兆円17兆円64

出所:内閣府、日銀、レコフ、金融庁、地銀協、日銀B/Sは17年10月

  2人が現在懸念するのは日銀の異次元緩和政策の副作用だ。安斎氏は超低金利下で収益が見込めない国債市場、コール市場が機能しておらず人材も離れている現状を指摘し「危機時には大変な混乱が起きる」と心配する。石井氏は「金利がなくなり、価格が動かない。本来、血液として経済を巡るべき金融が凍り付いている。リーマン危機前にも『過剰な安定』とされた時期があったように、どこかに変動の要因がたまっているように感じる」と話し「次の危機への道はきれいに敷かれている」と続けた。

資金繰り

  安斎氏は量的緩和政策などで「市場にお金がダブダブにあるから大丈夫ということではない。調達できない時はできない、それが信用不安だ」と強調する。山一証破たんの直接の引き金は、信用不安による資金繰りの行き詰まりだった。当時、企画室部長だった石井氏は「金融危機では、まず最初に潮が引くようにお金がなくなる。一番怖かったのは、山一が市場で全くお金を取れなくなったこと。市場にお金があっても、われわれにとってはお金そのものがないのと同じだった」と振り返る。

  こうした危機意識は、一部の金融トップも共有している。97年の金融危機を契機に日本のほぼ全金融機関が海外市場で調達難に陥る「ジャパン・プレミアム」に見舞われたからだ。三菱UFJフィナンシャル・グループの平野信行社長(66)は10月、米国勤務だった自身の経験から「自分の資金繰りにあれだけ苦労をしたことは後にも先にもない。金融危機というのが、まず流動性の危機になって現れるということを当時は実感した」と述べた。安斎氏は「危機を経験した人が世代交代でいなくなっていくのが問題。20年という月日は大きい」と感じている。

新「山一証券」

  時は流れ、元山一マンたちは歩み続ける。伊井氏は08年、仲間とコモンズ投信を立ち上げた。以来、現役世代の資産形成を支援するため、低い手数料で毎月少しずつ積み立てるような投資信託を提供し続けてきた。近年、金融庁は日本の運用会社に対し「売れ筋投信は複雑で長期保有に適さないものがほとんどだ」と改善を促し始めたが、伊井氏は当初からこうした販売姿勢とは距離を置く。山一証で得た教訓を胸にこれからも「本当に顧客や社会に支持される会社」を目指すつもりだ。

  レコフを創業した立川氏。M&Aはまだ日本で馴染みが薄く「乗っ取り屋」と警戒されていた時代だった。仕事が順調である訳もなく、山一証破たんの頃には60億円の借金を背負っていた。立川氏はすぐに旧知の山一証子会社の社長に電話をかけ身売りの助言を売り込んだ。山一証関連の案件などで事業は好転。借金は3年で完済した。立川氏は自分たちが救われたのは「山一のおかげ」と話す。「100年企業でもつぶれると経営者たちが考えるようになり、M&Aが経営の選択肢に加わった」。

  立川氏は04年、独立して新たにM&A助言会社を設立。14年に新会社の名称を「山一証券」と改めた。名門とはいえ、破綻した企業の名前を引き継いだ理由について、立川氏は「存続こそが最高の企業価値。M&A助言に当たり、破綻の歴史に真剣に学ぶ姿勢を忘れない」という思いを込めた。20年前、多くの元同僚が路頭に迷った揚げ句、年収が半減、転職を繰り返すなどの苦労をしていたという。「なぜ自主廃業」の憤りは今も消えない。

(第9、10、11段落を追加して更新しました.)
    最新の情報は、ブルームバーグ端末にて提供中 LEARN MORE