中原のり子さんの夫で医師だった利郎さん(当時44歳)は1999年、病院の屋上から飛び降り命を絶った。遺書には、「スタッフに疲労蓄積の様子がみてとれ、医療ミスの原因になってはとハラハラ毎日の業務を遂行している」と記されていた。裁判所は利郎さんを過労死、残業時間は月83.5時間だったと認定した。

  「長時間労働は個人の頑張りではなんともならないレベルに来ている」と語るのり子さんは、最期の日も新品のポロシャツと革靴を身につけて家を出た夫の姿を覚えているという。過労死や健康障害との因果関係が認められる「過労死ライン」は月80時間が目安。政府が時間外労働の上限を単月100時間未満としたことについて、「後退という言葉では片付けられない」と感じている。

  長時間労働抑制や生産性向上を目指した「働き方改革実行計画」で、政府は3月、時間外労働は原則として月45時間、年360時間とした。しかし、経団連、連合と合意する過程で、特別な事情がある場合には年720時間(月平均60時間)が許容され、単月あたりの上限は100時間未満との特例も付け加えられた。

  連合の神津里季生会長は、合意後、記者団に対し「100時間まで大丈夫との認識になるのは絶対避けるべきだとの思いが強くあった」と不本意さをにじませ、上限45時間という原則に実効性を持たせるには「格段の努力が必要」との認識を示した。安倍晋三首相は実行計画を「歴史的な一歩」と称賛した。

  全労連伊藤圭一労働法制局長は、これまで規定がなかった「残業の上限規制を設けることを前進と見守ってきたが、100時間と明記することは改悪以外なにものでもない」と憤る。80時間以上の残業を問題視していた司法判断にも影響を与えかねず、過労死認定の基準が変わる懸念もあると述べた。

  厚生労働省の「過労死等防止対策白書」によると、2015年に2万4000人いた自殺者のうち勤務問題が原因と推定されるケースは2159人。遺書などによる原因特定をした比較では「仕事疲れ」が3割、「職場の人間関係」が2割などとなっている。

無制限の労働

  日本では、高度成長期に企業が終身雇用を保障する代わりに、従業員に無制限の労働を求める雇用形態が一般化した。学習院大学経済学部の今野浩一郎元教授は、「労働の量を提供すれば企業が成長した時代は合理的だった」が、少子高齢化による労働力不足が深刻化する中、女性や高齢者など「時間に制約のある人材」を活用する必要が出てきているのが現状だと述べた。

  終身雇用を前提としないパートや派遣社員など非正規雇用者の割合は1984年に15.3%だったのが、2016年には37.5%に増加。非正規雇用者に占める65歳以上の割合はこの10年で約180万人増えて15%程度を占めるようになった。

  働き方改革は本来、こうした問題を克服する糸口を探るためのものだった。長時間労働の抑制で女性や高齢者を労働市場に取り込み、1人当たりの生産性を上げることを狙ったが、議論の中心は残業時間の上限や非正規労働者の待遇改善にとどまった。生産性向上などへの目新しい処方箋は示せていない。

  みずほ証券の上野泰也チーフマーケットエコノミストは、示された計画は「主たる狙いとなる視点が定まっていない」として「前途多難だと言わざるを得ない」と指摘。その上で、政府が働き方改革に注力するあまり、日本経済の長期停滞に結び付く可能性が高い人口減少や少子高齢化問題への取り組みがおろそかになってしまわないかと危惧していると述べた。

人為的にひどくする政策

  野村証券の桑原真樹シニアアナリストは「政府の残業規制は、労働力不足の問題を人為的にひどくする政策」と指摘する。3月17日づけの野村証券リポートでは、残業時間を年間720時間に機械的に抑制した場合、労働投入量は2%以上減少し、日本経済の下押し圧力になるとしている。

  経団連の榊原定征会長は3月の合意後、残業時間「100時間未満の中で仕事をするのは大変大きな改革で、経営側の強い協力と意思がなければできない」と述べた上で、経済活動への影響については、「非常に大きな懸念」との見方を示した。残業抑制分の労働量を企業がどのように補っていくかは企業側の課題として残されている。

  日本の15年の時間あたりの労働生産性は、44.8ドル(約4950円)でG7諸国で最も低い。一方、労働人口は減少が続いており、15歳ー64歳の人口は13年、32年ぶりに8000万人を下回った。60年には約半分の4400万人に減少することが見込まれている。

 「予行練習」で意識変化も

  厚生労働省の時間外労働規制に関する検討会に携わってきた今野元教授の見方は、幾分肯定的だ。企業の時間管理方法が変わらない限り人材の確保もできなくなる現状で、実行計画は「最悪の状況を回避するためのベース」と捉えるべきであり、あとは「企業の自助努力と政府の雰囲気づくり」で緩やかに変化が訪れるとみている。

  政府は今年2月から、毎月末の金曜日を「プレミアムフライデー」として午後3時に仕事を終える呼びかけを始めた。個人消費喚起と同時に長時間労働是正など働き方改革にもつなげる考えで、初回の2月24日には約130社が仕事を早く切り上げる取り組みに参加した。

  非正規を含む全従業員330人に午後3時退社を呼びかけたPR会社サニーサイドアップでは、グループリーダーの奥山雄大氏が金曜午後からの金沢1泊旅行を計画、1カ月前から社内会議の日程調整をし、顧客に金曜午後不在への理解を求め始めた。顧客の反応は「しかたがない」というものだった。前の週の金曜日には予行練習を行い、時間管理を意識すれば働く時間は短縮できると実感したという。

  サニーサイドアップでは結局、東京と大阪の両オフィスを午後3時に閉鎖し施錠した。松本理永バイスプレジデントは、PR会社は顧客都合で時間外の対応が必要となるが、インターネット電話「スカイプ」など通信技術を活用することで、帰宅後でも必要に応じた対応が可能となり残業が減ったと話す。今後、顧客の理解が進めばさらなる労働時間の短縮は可能だとの見方を示す。

  1回目のプレミアムフライデーでは、参加ロゴマークの使用申請が6000件を超える中、サービスや商品を提供する側の多さが目立っていたが、2回目の3月最終金曜日は仕事を切り上げる側の参加企業が2倍以上の300社に増加し、一定の広がりをみせている。
  

  

最新の情報は、ブルームバーグ端末にて提供中 LEARN MORE