日本銀行で長年にわたり金融政策運営の最前線で手腕を発揮してきた雨宮正佳理事。日銀内で今、「ミスターBOJ(日銀)」と言えば、金融政策の企画・立案を行う企画局を率いてきたこの人を指すことが多い。

  電撃的なタイミングと大規模な金融緩和策でデフレと闘ってきた日銀は9月、長期戦に備えた枠組みへと転換した。黒田東彦総裁の在任中の2%物価目標達成が見通せなくなった今、雨宮氏の金融政策運営に占める存在感が一段と高まっている。

黒田総裁(左)の隣に座る雨宮理事(国会)
黒田総裁(左)の隣に座る雨宮理事(国会)
Photographer: Tomohiro Ohsumi/Bloomberg

  2018年4月に任期が切れる黒田総裁と2人の副総裁(任期はいずれも18年3月)の後任選びでも、雨宮氏の名前が浮上する可能性がある。関係者によると、前回の人事の際、12年末に副総裁ポストを打診されたが、中曽宏現副総裁の方がふさわしいとして固辞したという。

  次期総裁候補には、前内閣官房参与の本田悦朗駐スイス大使、伊藤隆敏コロンビア大学教授らの名前が市場で取り沙汰されるようになってきた。雨宮氏の野心は定かでない。ボスである総裁の意向に沿って行う政策の企画・立案では高い評価を確立しているが、トップとしての力量は未知数だ。

音楽家の夢を諦め

  雨宮氏の若い頃は、その後の中央銀行でのキャリアを彷彿(ほうふつ)させるエピソードばかりではない。都立青山高校2年の時には、趣味のクラシック音楽に熱中して化学の試験で赤点を取ったこともある。音楽家の道を歩むことを夢見たが、音楽系大学の入試願書を親が全て内緒で捨ててしまい、断念せざるを得なかった。

  夢を諦めて入った東京大学経済学部では、数理経済学の分野で先駆的な業績を上げた故宇沢弘文教授の薫陶を受けた。1学年上の現米プリンストン大学教授の清滝信宏氏や、現学習院大学教授の宮川努氏らも同門だった。経済学を生かそうと日銀に入行。今では9人の政策委員以外で最も影響力のある筆頭理事として、企画局のほか、日々の金融市場調節を担う金融市場局など中枢部署を束ねる。

戦略を練る

  本田氏は10月のインタビューで、雨宮氏について「非常に有能な人物だ。プレゼンテーションがとてもうまいし、いろいろな戦略を立てるのが上手だ」と評価。「非常に筋の通った方のようにお見受けしている」と語った。

  複数の関係者によると、政治家との折衝で前面に出る機会が多い霞が関の官庁と異なり、狭い付き合いにとどまりがちな日銀関係者の中で雨宮氏の人脈の広さは突出している。黒田総裁誕生までマネーの量を重視するリフレ派と距離を置く同僚が多かったが、そういった学者とも積極的にパイプを築いてきた。

  円高論者だった故速水優氏、コミュニケーション上手だった福井俊彦氏、リーマンショックの対応に追われた白川方明氏、異次元緩和の黒田氏。個性の異なる歴代総裁に仕えてきた雨宮氏の持ち味は柔軟性だ。本田氏によれば、金融政策に対する姿勢が黒田総裁と対極にあった白川前総裁の任期中から、アベノミクスのベースになるような考え方をすでに雨宮氏は議論していたという。

  もっとも、東大の宇沢ゼミで同級生だった一橋大学の深尾京司教授は「マネタリストではないと思う」と語る。雨宮氏は全ての理論を相対的に見ており、どの理論にも一長一短があると考えているため特定の理論に偏らず、「その状況に応じて適宜変わるのではないか」という。

青春の文書

  正直な思いをありのまま表現したが故に、日銀内で「青春の文書」と呼ばれるペーパーがある。企画第一課長(現在の政策企画課長)だった雨宮氏が44歳の誕生日を間近に控えた1999年9月、徹夜で書いたものだ。日銀は同年2月にゼロ金利政策に踏み切ったものの円高の進行は止まらず、為替介入で供給された円資金を日銀が吸収せず市場に放置する非不胎化を行うのではないか、との思惑が当時強まっていた。

  しかし、日銀は金融政策決定会合で現状維持を選択。同時に公表したのが「当面の金融政策運営に関する考え方」だった。実体的な効果がなくとも市場が何らかの期待を持っていれば、それを利用してはどうかという考え方に対し、「そうした方法の効果はあったとしても一回限りで、永続きしませんし、中央銀行として目的と政策効果についてきちんと説明できない政策をとることはできません」と市場を突き放す文書だった。結果的に円高は継続した。

  同じ速水元総裁の下で、政府の反対を押し切って強行した2000年8月のゼロ金利政策の解除、その後の景気後退入りを受けて01年3月にそれまで否定していた量的緩和政策に踏み切った際も、現場を取り仕切ったのは雨宮氏だった。こうした一連の経験が、市場との対話や結果の重要性、一つの考え方に凝り固まることへの自戒の念を強く抱かせることになった。

大阪から呼び戻され

  06年に企画局長となり、量的緩和政策を解除した後2度の利上げに踏み切った福井元総裁を支え、10年には白川前総裁の下で理事に昇格。同10月の金融政策決定会合では、リーマンショック後の急激な円高を阻止するため、株価指数連動型上場投資信託(ETF)の買い入れを柱とする包括的な金融緩和の導入に尽力した。

  12年5月に大阪支店長に就任したが、安倍晋三政権の下で総裁に就任した黒田氏に呼び戻され、13年3月に金融政策担当理事に復帰。量的・質的緩和の設計を主導した。14年6月に異例の理事再任。日銀は同年10月に量的・質的緩和を拡大、今年1月マイナス金利導入に踏み切った。関係者によると、雨宮氏はマイナス金利に当初さほど乗り気ではなかったとの見方も日銀内にあるが、最終的には政策を推進した。

日銀の転換に批判も

  巨額の長期国債の購入に限界説が高まる中、日銀は9月、政策の総括的な検証を行うとともに、操作目標をマネーの量から金利に転換した「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を導入。一向に近づけない2%物価目標の実現に向けた持久戦へ舵(かじ)を切った。

日銀本店
日銀本店
Photographer: Kiyoshi Ota/Bloomberg

  この転換に日銀OBを中心に評価の声が上がる一方で、アベノミクスの支持者からは批判も出た。安倍首相と長年にわたりパイプを持つ中原伸之元審議委員は9月のインタビューで、枠組み変更はマイナス金利政策の失敗を上塗りするもので、日銀内のリフレ派の敗北を意味すると述べた。金融政策はアベノミクスの中核にもかかわらず独断で総括に踏み切ったことを中原氏は疑問視しており、黒田総裁の再任は「かなり難しくなったのではないか」と述べた。

  中原氏は1998年から2002年まで審議委員を務め、量的緩和導入を早くから主張。01年3月に日銀が導入する端緒を開いた。雨宮氏については「方向転換が決まった後で説得して回るのが彼の役割だった。彼は方向転換などしていない」と語った。

甲州財閥

  雨宮氏の家系をたどると歴史上の人物に行き当たる。明治の鉄道王の異名も取る甲州財閥の巨頭、雨宮敬次郎だ。雨宮氏は玄孫(やしゃご)に当たり、祖父の時代に上京し「あまみや」と名乗るようになったが、もともとの姓は「あめみや」だ。

  国立国会図書館のウェブサイト、近代日本人の肖像によると、敬次郎は行商から身を起こし、事業の失敗と成功を繰り返して1888年に甲武鉄道の取締役となる。以後、川越鉄道や北海道炭礦(こう)鉄道と関わり、1903年には東京市街鉄道株式会社を設立、京浜電鉄、江ノ島電鉄の社長となるなど、近代産業の多くの分野の事業に参画した。日清製粉に次いで製粉国内シェア2位の日本製粉を興したのも敬次郎だ。

  雨宮氏を高く評価する本田駐スイス大使とも敬次郎の縁で結ばれている。敬次郎の故郷、山梨県の旧塩山市(現甲州市)を流れる重川に雨敬(あめけい)橋という橋がある。敬次郎の功績をたたえて1907年に架けられた木造の橋は、本田氏の義父が塩山市長だった94年にコンクリートに架け替えられ、たもとに建立した雨敬翁顕彰碑に揮毫(きごう)したのも義父だった。

金融政策決定会合の名付け親

  99年秋の「青春の文書」とともに、雨宮氏の胸に深く刻み込まれているのが、98年4月施行の新日銀法とともに始まった金融政策決定会合の仕組みを企画立案したことだ。

  議論を始めたのは95年。経済情勢や金融政策運営を議論し、採決を行い、金融政策調節方針を決める、数週間後には議事要旨も公表する、といった会議の流れから、会議中のお茶の時間などもろもろの細かい段取りを書き込んだペーパーを作ったのが雨宮氏で、「金融政策決定会合」の名付け親でもある。かつて関わった多くのペーパーの中で、今も唯一手元に置いているのがこれだ。

  雨宮氏は本店以外の勤務も経験している。2度の海外赴任はいずれもニューヨークで、最初は87年から2年間。2度目は2003年から1年間、研究員としてコロンビア大学に在籍した。

  12年に大阪支店長に就任した際は、支店長経験がなかったため自ら志願した、大規模な量的緩和の発動に消極的だった白川前総裁から遠ざけられた、当時の橋下徹大阪市長との関係構築に送り込まれたなど、さまざまな臆測が飛び交った。

夢よ再び

  9月に61回目の誕生日を迎えた雨宮氏には退任後に挑戦したい夢がある。青春時代に断念した音楽の道、それも理論の勉強だ。かつて激務の合間を縫って輸入CD専門誌で評論活動をしていたこともあり、クラシックに関する知識は玄人はだしだ。好きな作曲家はプロコフィエフとバルトーク。カナダのピアニスト、アンジェラ・ヒューイットを国内に初めて紹介したのも雨宮氏だ。

  一番好きな楽器はチェロだが、音楽理論の道を究めるにはピアノ演奏が欠かせないと、今も週に何日かはピアノに向かう。12月の発表会ではメキシコの作曲家のマヌエル・ポンセに挑む。幼なじみだった夫人は音楽大学の出身だ。

雨宮理事
雨宮理事
Photographer: Tomohiro Ohsumi/Bloomberg

  金融政策の現場で数々のフロンティアを切り開いてきた雨宮氏だが、引退後は音楽の世界で、ある旋律がどうして美しく聞こえるのか、旋律の高低や長さを定量的に分析する新たな分野に取り組もうと考えている。最初の理事任期終了後には、音楽教室に通おうと具体的に計画していたほどだ。

  ともあれ雨宮氏は今、引き続き金融政策の中枢に座る。学生時代から知る元理事の早川英男富士通総研エグゼクティブフェローは11月のインタビューで、もし日銀から総裁か副総裁を出すなら「彼が一番向いている」と語る。「政策を担当するには単に頭の良さだけでは駄目だし、何でも正直に言うのも駄目だ」と早川氏。「ある種の人の悪さは大事であり、そういう意味で才能があるのは彼ではないか」と話した。

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