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キューバのカストロ前議長が死去-共産主義のとりで守った独裁者

  • 49年にわたる統治で、貧困層の識字能力と医療を向上させた
  • CIAは1960-65年に少なくとも8件の暗殺計画を企てた

キューバにソ連崩壊後も続く社会主義政権を樹立したフィデル・カストロ前国家評議会議長(国家元首)が死去した。90歳だった。革命の機運を世界中にもたらし、2つの超大国を核戦争の淵まで追い込んだ。

  カストロ氏の死去は現職のラウル・カストロ議長が国営メディアで発表した。AP通信が26日報じた。現議長はフィデル・カストロ氏の実弟。

Fidel Castro in 1959

フィデル・カストロ氏(1959年)

Source: Bettmann Collection via Getty Images

  カストロ氏は反政府軍を率いて1959年にバティスタ政権を打倒した。49年にわたる統治で、貧困層の識字能力と医療を向上させた一方、数千人の反体制活動家を投獄し、私有財産を没収したほか、多くのキューバ人が米国に亡命する事態を招いた。

  カストロ氏は冷戦のさなか、米フロリダ州からわずか90マイル(145キロ)のキューバをソ連の前哨(ぜんしょう)基地とすることで国際舞台で存在感を示した。62年のキューバ危機では米ソを核戦争の瀬戸際に追いやり、さらに中南米やアフリカの革命派やマルクス主義政府を軍事・政治面で支えた。

Fidel Castro and his brother Raul Castro in 2004.

カストロ氏と弟のラウル氏(2004年)

Photographer: Jorge Rey/Getty Images

  カストロ政権は、米国が支援した侵攻(ピッグズ湾事件)を乗り切り、カストロ氏自身も米中央情報局(CIA)が企てた少なくとも8件の暗殺計画を切り抜けた。

  カストロ氏はキューバ革命を常に擁護していた。2006年に刊行されたイグナシオ・ラモネ著の口述自伝「フィデル・カストロ-みずから語る革命家人生(邦題)」で、「われわれが自国で成し遂げたことと、われわれの社会を組織してきた方法について少しも後悔していない」と述懐している。

国家元首を引退

  06年以降、カストロ氏は自身の権力支配を緩め始めた。この時期には手術から回復する一方、ラウル・カストロ氏に権力を暫定的に委譲。08年2月19日には国家元首を引退した。こうした変化は改革につながったが、歴代の米大統領やキューバ系米国人が期待したような民主主義ではなかった。

Obama Meets Raul Castro at the UN Headquarters in 2015

オバマ米大統領とラウル・カストロ氏(2015年)

Photographer: Anthony Behar/Pool via Getty Images

  14年12月17日、オバマ米大統領はキューバとの国交正常化と約50年にわたる経済制裁の緩和を目指す方針を表明した。多数のキューバ国民やキューバ系米国人が、フィデル・カストロ氏存命中には絶対起こり得ないと思っていた国交正常化への道筋だった。

  その翌月カストロ氏は国営メディアが報じた書簡で、「米国の政策を信頼していないし、言葉も交わしたことがない」とする一方で、「だからと言って、対立や戦争の脅威に対する平和的解決に反対するわけではない」と述べた。

  カストロ氏は1926年8月13日、キューバに生まれた。父アンヘル・カストロはスペインから移住した労働者で、母リーナ・ルス・ゴンサレスは一家の使用人だった。

野球に熱中

  両親はカトリック系の学校に通わせた。カストロ氏は野球に熱中し、高校時代は「傑出した大学生レベルの選手」として名をはせた。45年には、ハバナ大学に入学して法律を専攻。革命的政治への第一歩を踏み出した。

  53年、カストロ氏はバティスタ政権転覆を目指し、約165人を率いて兵舎を襲撃したが失敗。裁判で15年の禁固刑を言い渡された。

  2年後に大赦で釈放された後、メキシコに亡命。56年にはバティスタ政権とゲリラ戦を展開するため、エルネスト・チェ・ゲバラらとキューバに侵入したが失敗。シエラ・マエストラ山中に退却したが、民衆の支持を得て59年1月1日、バティスタ政権を打倒した。カストロ氏は当時、32歳だった。

  その後2年間にカストロ氏は、土地の接収や、米系の製油所や農場の国有化を図ることで、キューバを社会主義独裁国家に変えた。政権に反発する者を投獄・殺害し、無神論国家を宣言してカトリック系の400校を閉鎖した。

暗殺計画

  米上院委員会の75年の報告書によれば、米中央情報局(CIA)は60-65年に少なくとも8件の暗殺計画を企てた。ケネディ大統領(当時)の許可を得て、CIAが支援した亡命キューバ人部隊が61年4月17日、ピッグズ湾に侵攻したが、失敗に終わった。

  その1年半後、カストロ氏がソ連に対しキューバ国内にミサイル基地建設を認めていたことが、米偵察機が撮影した写真で判明した。13日間に及ぶキューバ危機の始まりだった。

Kennedy signs the order of naval blockade of Cuba in 1962

ケネディ米大統領がキューバの海上封鎖命令に署名(1962年10月24日)

Source: AFP/Getty Images

  ケネディ大統領は海上封鎖を実施、戦闘機への核兵器搭載を命じた。対立からほぼ2週間後に、ケネディ大統領はソ連がキューバからミサイルを撤去するなら、米国もトルコとイタリアからミサイルを引き揚げると申し出た。その翌日、武器を撤去するとのソ連首脳の声明をモスクワ放送が伝えた。

  キューバ経済はソ連の支援が途切れた91年以降に悪化。食料配給を実施したほか、ガソリン節約のため自転車の利用を命じた。国内リゾート地でのスペイン系ホテルの営業を認め、外貨を稼いだ。

ローマ法王との会談

  共産党は91年、宗教活動を禁止する制度を撤廃。96年にカストロ氏はバチカンでローマ法王ヨハネ・パウロ2世(当時)と初会談を行い、法王に98年のキューバ訪問を要請。法王の呼び掛けに応じ、政治犯を含む囚人300人を釈放した。

  それでも、カストロ氏はキューバ社会で圧倒的な支配力を維持していた。2003年には反体制派に対し新たな弾圧を行い、国際的な批判を浴びた。

  カストロ氏の健康状態が悪化するにつれ、かつてキューバ人の生活でおなじみだった同氏の演説は政府系新聞への投書に代わった。ラウル・カストロ氏率いる政権が海外渡航制限などを緩和したが、社会主義を擁護した。

  私生活では1948年に結婚したミルタ・ディアス・バラルトとの間で息子フィデル・カストロ・ディアス(フィデリト)をもうけたが、55年に離婚した。口述自伝によると、ダリア・ソト・デル・バジュと80年に再婚、2人の間に5人の子供がいる。

原題:Fidel Castro, Who Turned Cuba Into Communist Outpost, Dies at 90(抜粋)

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