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黒田総裁の苦しみは庶民の幸せ、「スイートスポット」でほっと一息

更新日時
  • 物価上昇は「ネガティブな経験しかない」と青山さん
  • デフレの良い面が出る「スイートスポット」にある、とみずほ証

サラリーマンの聖地、新橋のお昼時。蒸気機関車が鎮座するJR駅前のSL広場近くの飲食店街では、ラーメン屋や牛丼屋のほか、昼も営業の居酒屋などの店先でメニューのサンプルと値段をのぞきながら歩く人々でごった返している。

  アベノミクス下でのサラリーマンの懐事情はどうなのか。炎天下のSL広場で先週、彼らに直接聞いてみた。食品関係の会社で営業を担当する青山直樹さん(35)は、「月給は変わらないが、夏のボーナスは減った。アベノミクスで生活が改善したという実感は湧かない」と答えた。ただ、「物価が上がらないのは、勤務先の業績に対する影響はともかく、自分の生活にはプラスの面が少なからずある」と言う。
 
  第2次安倍晋三内閣が発足した2012年末と比べ、有効求人倍率など雇用情勢は改善しているが、給料はほぼ横ばい。毎月のインフレ率は前年比で平均1.1%上昇しているため、実質賃金は同1.2%減少している。その間に引き上げられた消費税率の影響などもあり、内需の柱である家計消費を伸ばす兆しは出ていない。

Bank of Japan Governor Haruhiko Kuroda News Conference

黒田日銀総裁

Photographer: Kiyoshi Ota/Bloomberg

  アベノミクスの一環として、日本銀行の黒田東彦総裁が推し進めてきた大胆な金融政策よりも、歴史的な原油安と円高を受けた物価の下落の方がむしろ家計に恩恵をもたらしている。今春闘での賃上げ率は政権発足後で最低だったが、安倍首相は雇用改善と物価下落を背景に7月の参院選で勝利。一部報道では内閣支持率は高水準を維持している。

Misery Loves Inflation

  参院選で自民党に一票を投じたと言う青山さんには幼い子供がいる。妻は最近、時間の融通がきく保険会社の営業職に採用が決まった。財布事情に関わる物価について尋ねると、「消費税率の引き上げなど、ネガティブな経験しかない。会社の業績や給料、物価と全体的に持ち上がっていけば良いが、良い思いをした実感がない」と、手にしたハンカチで額の汗を拭きながら語った。

  こうした庶民感覚は失業率とインフレ率を足し合わせた「悲惨指数」に表れている。両者は本来、経済全体の需給ギャップに影響を受け、反対方向に動く傾向にある。しかし、足元では完全失業率が6月に3.1%と1995年以来の水準に低下。全国消費者物価指数(総合)は前年比0.4%下落と、2カ月連続で黒田総裁が異次元緩和を導入した2013年4月以来の低水準を付けた。両者とも低下した結果、悲惨指数は6月に2.7%と1995年以来の低水準を記録した2009年10月に並んだ。

  みずほ証券の末広徹シニアマーケットエコノミストは「失業率が低くてインフレ率も低いのは、普通の人々にとっては最高に幸せな状態だ」と指摘する。理由は所得が増えていないのに、生活水準を落とさなくて済むためだ。ただ、デフレが長引くと、企業の収益減、賃金下落、雇用悪化に波及していくので「永続しない話でもある」と言い、今は「デフレの良い面が出る、一時的な『スイートスポット』に入っている」と述べた。

  前例のない金融緩和と財政出動などによる過度な円高の是正と株高を通じ、安倍内閣は景気回復と物価の押し上げに成功したかに見えた。ただ、14年4月に消費税率を5%から8%に引き上げて以降、内需は家計消費を中心に頭打ち状態だ。

  悲惨指数は増税直後の14年5月に7.3%と、日本経済が第2次オイルショックから立ち直りつつあった1981年以来の水準に悪化。失業率は低下傾向にあったが、インフレ率が3.7%と2013年4月の異次元緩和の導入前から4.6%ポイント急騰し、1991年初め以来の高水準となったためだ。足元は2%台後半で推移している。

政府と日銀の温度差

  賃金の伸び悩みを背景に、世間で不人気な物価上昇の在り方をめぐり、政府と日銀の間で温度差が目立ち始めている。  

  政府は最低賃金を全国平均で約3%引き上げる方針を明示する一方で、16年度の年央試算の経済・物価見通しでは、異次元緩和への言及を安倍内閣の発足以降で初めて消した。黒田総裁は「所得から支出への前向きの循環メカニズム」が持続する下で、景気の基調は緩やかに拡大していくとし、2%の物価目標の達成が17年度を中心に実現すると見込んでいる。しかし、内閣府は同年度のインフレ率が1.4%にとどまると予測している。

  早稲田大学大学院の岩村充教授は7月のインタビューで「成長率が高まらずに物価のジャンプアップだけが起きたら、次の総選挙では間違いなく政権交代だろう。そうなったら、日本にもトランプ氏とサンダース氏が同時に現れる恐れがある」と指摘。「圧倒的多数の人々にとっては物価上昇のダメージの方が大きい。特に年金暮らしの高齢者はそうだ」と語った。

小遣い、3割減も

  みずほ証の末広氏は、失業率が低下しても賃金が上がらないのは「企業の収益力が高まらず、低コスト・低賃金でないと成り立たない産業が増えているからだ。収益力が高い産業を増やすべく、成長戦略を推進するしかない」と説く。現状では「追加緩和してもさらなる効果は見込めない。緩やかなインフレすら実現できない」と分析。「これだけ金融緩和してもバブルが起きにくいのが日本経済の実力だ」と言う。

  日銀は7月末の追加緩和で国債購入の拡大やマイナス金利の深掘りを見送った。次回9月の決定会合では、異次元緩和とマイナス金利政策の下での経済・物価動向や政策効果について「総括的な検証」を行う。

  新生銀行が4月に実施した調査によれば、男性会社員の小遣いは1カ月平均3万7873円と前年比231円の微増にとどまり、1979年の調査開始以来3番目に低い水準となった。2014年4月の消費増税から2年経っても、増税の負担を感じるとの回答が男性で74.4%、女性会社員は82.5%に上った。

  千葉県在住で二児の父親である佐々木昭一さん(37)は、「給料は横ばいだが、小遣いは3割減った。妻が生活費や教育費にもっと必要だと言うので。こういう状況で物価が下がるのは助かる」と言う。政府・日銀のリフレ政策には「全面的に反対だ。あまりにも一体化してしまい、日銀の独立性がない印象だ。将来的にハイパーインフレの可能性もないとは言えないのではないかと不安だ」と話した。

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