自動車ジャーナリストの松下宏氏は昨年末、トヨタ自動車の燃料電池車(FCV)「ミライ」の発売と同時に購入を予約した。FCVは自分の生きている間に実現しない究極のエコカーと思っていたが、今はハンドルを握り、羨望の眼差しを受けながら街を走っていると自負している。しかし、愛車は松下氏の日々の生活を大きく制限している。

  「ものすごく考えて、仕事のスケジュールを調整している」-。松下氏はミライが燃料切れにならないよう仕事を午前早めか、午後遅めに設定しているという。自宅から利用可能な水素ステーションは都内の1カ所のみで、平日の午前9時から午後5時までしか開いていない。「夕方5時までにスタンドにたどりつかないと、ミライは動かなくなってしまう」。車の試乗会で箱根方面に出掛けるときは、渋滞も考慮して綿密なスケジュールを作成している。

  ブルームバーグ・ニューエナジーファイナンスのアナリスト、クレア・カレー氏は「水素ステーション整備はFCV普及の大きな障害となっている」と述べた。2020年時点でもFCV普及台数は限られる見通しであることから、「水素ステーションを建設する側にとっても、ビジネスとして成り立つ可能性は当分低い」とみている。

  燃料充てん施設の整備が課題となる中、国内ではトヨタに続き、ホンダが今年度中に、日産自動車も時期を明示していないがFCVを投入する計画だ。世界初のFCV投入となったミライは1回の燃料充てんで約650キロメートル走行可能で、走行時に二酸化炭素をまったく排出量しない。国内価格は723万6000円と安くないが、日本では発売後1カ月で年間販売計画の4倍近い約1500台を受注、米国ではほぼ2倍の約1900台を受注した。

政府の後押し

  日本でFCV投入が進む背景には、安倍晋三政権の後押しがある。14年に発表した日本再興戦略では、水素ステーションの先行整備や規制の見直しを明記。経済産業省は水素・燃料電池戦略ロードマップで25年ごろにFCV車両価格を同車格のハイブリッド車(HV)と同等の価格となることを目指すとし、水素ステーション整備費用の2分の1、またFCV購入1台当たり約202万円を補助するとした。

  今年1月の官邸でのミライ納車式では、安倍首相が試乗後に「水素社会の幕開けを実感した」と述べ、セルフ式の水素ステーション整備に向けて規制緩和を進める方針を示した。経産省では25項目にわたる関連規制の見直しに着手しており、JX日鉱日石エネルギーや岩谷産業などエネルギー各社が商用水素ステーション設立を進めている。

  政府や業界団体では、15年度末までに100カ所の水素ステーション整備を計画している。整備費用は1カ所当たり4億-5億円必要で、ステーションを利用するFCVがまだ少ないこともあり、整備のめどが立っているのは現時点で81カ所にとどまっている。

環境対応車

  日本の自動車メーカー大手3社の環境車対応は、これまで異なっていた。トヨタは1997 年に世界初のHVとして「プリウス」を発売。以来、「カローラ」や「レクサス」などにもHVを展開し、今年7月末までにHVの世界累計販売は800万台を突破した。トヨタは世界の先陣を切って量販したFCVで、20年ごろに年間3万台の販売を目指している。

  日産は電気自動車(EV)に力を入れてきた。10年12月に日米で「リーフ」を発売し、バッテリー生産工場整備に力を入れてきたが、充電時間と航続距離などの問題で大幅な普及に至っていない。EV向け急速充電設備は世界で約9200台が設置済みで、うち日本が約5500台、欧州が約2300台、米国が約1300台となっている。国内にはこのほか普通充電設備が約1万3000台整備されているが、フル充電に5-7時間かかることから利便性の問題が指摘されている。

  FCVに最も注力してきたのがホンダだ。80年代から開発を始め、2002年には日米の政府向けにリース販売の「FCX」15台を納車。05年には世界で初めて個人客へリース販売した。第3世代となる08年発売の「FCXクラリティ」は、米国で個人客を中心にリース販売している。28日からの東京モーターショーで発表するのはホンダにとって第4世代のFCVとなり、これまでの限定販売から普及に向けた販売が始まる。

世界市場でも整備が課題

  水素ステーションの整備は海外でも課題だ。英国では15年までに65カ所の整備計画だったが、現時点では年末で11カ所にとどまる見込み。ドイツでは16年までに50カ所の計画だが、12カ所にとどまっている。

  トヨタがミライ販売を開始した米国で唯一の州であるカリフォルニアでは、10月初旬時点で一般車両が使える水素ステーションは2カ所のみだ。このほか6カ所で設置済みだが、さまざまな使用条件の確認が今後必要になる。

  インフラ整備が遅れている要因の一つは、水素ステーションの建設基準に満たない立地だったり、交通状況に合わせて建物のレイアウト変更の必要が生じていることがある。実際に建設したもののステーションを利用するFCVがほとんど普及していないという現状も、新規建設をためらわせる要因となっている。この遅れは徐々に挽回される見込みで、今年末までに10数カ所、来年はさらに32カ所が整備される予定。

  「ずいぶん不自由しているけど、次世代車を最初に買った者の宿命だと思ってる」-。松下氏は、インフラ問題は「覚悟の上」だったと述べ、現状を楽しんでいる。乗り心地も、「重心が低く、高級車と同等以上」だと感じている。アクセルを踏んだときの加速も気に入っており、来年以後インフラの整備が進むことでさらに楽しめる環境になると期待している。

  28日開催の東京モーターショーでは、ホンダが市販車としてのFCVを発表し、価格や投入時期を明らかにする予定。トヨタは水素社会が実現したときの新たなFCVの形をコンセプト車として紹介する。

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