「私は東洋人」、日中の関係改善願う元残留孤児-中国の母に今も思い

元残留孤児の城戸幹さん(73)は、自らを「東 洋人」と呼ぶ。時代に翻弄(ほんろう)された人生だったが、自らが過 ごした日本と中国という2つの国の関係改善を願いながら、70年目の終 戦記念日を迎えようとしている。

戦前の旧満州(現中国東北部)に生まれ、20年以上の歳月を経て自 力で帰国を果たした城戸さん。7月のインタビューで、「日本と中国は よそ者ではない」と話し、歴史認識などをめぐって対立する両国関係に ついて「仲が悪いのは政治だけ。国民はみんな仲良くしたいと思ってい る」と語った。

日本が降伏した1945年の夏。満州国軍の軍人だった父の弥三郎さん は前線に出ており、母の由紀子さんは腸チフスと診断されて入院中だっ た。

ソ連軍が迫る中、当時3歳だった城戸さんは、父の中国人の知人と ハルビンへ逃れようとしたが、途中で列車がソ連軍の機銃掃射に遭遇。 知人は城戸さんを、子供の産めない体だった中国人女性、付淑琴さんに 養子として預けた。こうして城戸さんの戦後が始まった。

お母さん

城戸さんは当初、「自分には日本のお母さんがいるから」と、付さ んのことを母と呼ばなかった。ある日、2人が住んでいた人口300人ほ どの村をソ連軍が砲撃。付さんが体を張って城戸さんをかばったことを きっかけに「お母さん」と呼ぶようになったという。

村での生活は「年に1、2回しか米を食べられない」ほど貧しかっ たが、城戸さんは成績優秀で、付さんの自慢の子供だった。奨学金をも らいながら中学、高校に進学し、「出世して、お母さんを幸せにした い」という思いで勉学に打ち込んできた。

自力の帰国

「孫玉福」と名乗り、中国人として生きてきた城戸さんが日本への 帰国の思いを強くしたのは高校3年生の時。ささいなことで同級生から 「日本人のくせに」と罵られ、高校に提出していた履歴書の民族名を 「漢民族」から「日本民族」に修正した。そのことが城戸さんの人生を 変えた。

大学受験に臨んだ城戸さんは、北京大学の試験を通過したものの、 政治審査で不合格。他の大学もすべて落ちた。城戸さんには当局の見張 りがつくようになり、知人の日本人も「政治学習」という名の下に刑務 所に連行された。城戸さんは「中国にいても将来はない。自分は日本人 でしかない。日本に帰りたい」と思うようになっていった。

その頃から、城戸さんは日本赤十字社に宛てて、自分の日本人の親 を見つけてほしいと手紙を送り始める。やっと返事が届いたのは6年 後。城戸さんは「城戸幹」という自分の日本名とともに、自分の両親が 日本で生きていることを知る。それから3年後の1970年春、城戸さんに 帰国の許可が下りた。

中国を去る日、駅まで見送りに来た付さんは、気を失いかけて倒れ た。城戸さんは「もう日本に帰れなくてもいい」と列車に背を向けた が、付さんは「早く行け、早く行け」と何度も叫んだ。

初めての祖国

4月8日、城戸さんを乗せた飛行機は羽田空港に到着。初めて日本 の土を踏んだ城戸さんは、「我、生きて帰ってきたぞ、祖国よ」と叫ん だという。

再会した弥三郎さんに、城戸さんがつたない日本語で「オトウサ ン」と呼びかけると、弥三郎さんは「中国語でいいぞ」と応じた。わざ わざ着物姿で迎えに来てくれた母親の由紀子さんは、何も言わずに城戸 さんを抱きしめた。城戸さんは「お父さんの厳しい顔立ちも、お母さん の顔の丸いところも昔のままだった。28歳だったけど、子供に戻った気 持ちがした」とその時のことを振り返る。

愛媛県で、25年ぶりの親子そろっての生活が始まった。両親は何度 も「中国で苦労しなかったか」と城戸さんに聞き、城戸さんは何度も 「本当に自分を探してくれたのか」と問いかけたという。城戸さんは、 「2人から『ごめんね』という言葉は出てこなかった。父はソ連に捕虜 として収容され、母は開拓団に混ざって、みんな命からがら帰国した。 そういう時代だった」と語る。

日本での城戸さんの夢の1つは大学進学だったが、日本語もまだ話 せなかった城戸さんは定時制高校に入学。その後は親戚の世話で県内の 建設会社に入社し、定年まで勤めた。3人の子供にも恵まれ、今は中国 の歴史書を読んだり、魚釣りをしたりしながら毎日を過ごしている。 「人生そのものが大学なんだと思うことにした」と城戸さんは笑う。

中国の母

付さんについて「いつもまぶたの裏にお母さんがいる。私にとって は神様みたいな人だ」と語る城戸さん。帰国後、日本に呼び寄せたいと 思ったが、付さんは住み慣れた土地を離れられないと断った。

それでも何かしたいと、城戸さんは付さんに仕送りを続けた。近所 の人が付さんに「息子はそばにいなくても、豊かな生活ができて人一倍 幸せではないか」と言うと、そのたびに付さんは泣いたという。

付さんが自宅で息を引き取ったと知らされたのは96年11月。城戸さ んの脳裏には「小さな魚を釣って帰ったら、大げさに喜んでくれて、一 生懸命、料理してくれた。貧しい生活のなかで高校まで行かせてくれ た。いろんな思い出が一瞬にして浮かんできた」という。

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