酒井アサヨさんは大阪市内のマンシ ョンで玄関ドアをドンドンと両手のこぶしでたたき、外に出たいと一日 中わめく。どうしてそこにいるのか、本人の記憶は定かでない。認知症 を患っているので忘れてしまう。

87歳になったアサヨさんと同居する娘の章子さん(55)が5年ほど 前の出来事を振り返る。行く手を阻む章子さんをたたき、かみつき、暴 れて抵抗するアサヨさん。こんな光景が日常茶飯事となっていた。疲れ 果てた章子さんはその日、玄関のドアを開け、アサヨさんを会社員でご った返す大阪のビジネス街、北浜に解き放った。「出るのであれば出て いけ」。

「叫んでわめき、かみつく悪魔のような母に、私の人生は終わった と思った」と章子さんは言う。行き着くところまで行き着いて、どうす ることもできなくなった果ての決断だった。しかしこの後2人には思い もかけない物語が待っていた。

親や配偶者を介護する人は増え続け、章子さんのように精神的に追 い込まれている人も少なくない。警察庁のまとめによると、昨年は「認 知症または認知症の疑い」による行方不明者が1万人を超えた。何年も 行方不明になって発見される人もいれば、死亡していることもあるし、 介護者が高齢者を虐待し殺害に至るケースもある。

通帳を破る

厚生労働省の調べによると、12年には27人の高齢者が介護者によっ て殺害されたり、介護放棄されたりして死亡した。同年の高齢者虐待件 数は06年に比べ2割増え1万5000件を超えた。うちの半数は認知症を患 っていた。

元看護師で結婚後は専業主婦だったアサヨさんは奈良県大和郡山市 に住んでいて、今から10年近く前に認知症と診断された。その6年前に 夫がすい臓がんで亡くなってからは落ち込み、上手だった料理もやめて 出来合いののり巻やお好み焼きを買って食べる日々になった。頬骨が出 るほどやせ細った。認知症と診断されたとの電話を地元の高齢者サポー トセンターから受けたとき、章子さんはパニックに陥り、6年間やめて いたたばこにも手を出した。

アサヨさんは、隣近所のインターホンを鳴らして「夫がいない」 「子供がいない」と言い、マヨネーズやバナナを台所にため込んだ。家 の中を段ボール箱で散らかし、印鑑を持たずに銀行に行って現金を下ろ せないとかんしゃくを起こして行員の前で通帳を破った。「通帳を無く した」「現金がない」と章子さんに何度も電話があり、後から調べると 家中の引き出しから札束が出てきた。

大嘘

「本人が大丈夫と言うから信じていたけど、それが大嘘(うそ)だ った」と章子さん。近隣の苦情が増え章子さんは引き取る決意をし た。30年以上住んだ自宅から越すことを嫌がったので「遊びに行こう」 と大阪のマンションに連れてきた。アサヨさんの安全を考えて家に閉じ 込めた。デイケアにも通所したが、夕から朝にかけ二人きりで過ごす時 間は長かった。

認知症疾病啓発プログラムを運営する全国キャラバン・メイト連絡 協議会の菅原弘子事務局長は、「認知症患者にどう対応すればいいかみ んな困っていて、解決方法を知りたがっている。以前から現場では問題 が起きていて切羽詰まっていたが、対応が分からなかった」と言う。

日本の高齢化は急速で、国民の6%に当たる推計800万人が認知症 を患っているか、発症リスクを負っている。国立社会保障・人口問題研 究所の推計によると、65歳以上の人口は現在4人に1人だが、2060年に は4割になる。出生率が低く移民受け入れの合意もない中、納税人口は 減り、高齢者を財政的、物理的に支えるのが難しくなっていく。

予想外

玄関のドアを解放した日。アサヨさんは外に飛び出し、6キロも7 キロも休むことなく歩いた。章子さんは距離を置いて後から様子を見な がらついて行った。この日を境に全く予想していなかったことが起こっ た。自由をつかみ取ったアサヨさんの怒りが静まったのだ。笑顔を見せ るようになり、世間話や若いころの話をして、娘の友達や知り合いだけ でなく、知らない人も楽しませ始めた。

「母が1日中家の中で叫び続けていると、私の精神がむしばまれ煮 詰まってしまったが、外に出すことで本人も私もハッピーになった」と 章子さん。「メリットとデメリット両方考えたとき、外に出す方がいい と思った。外で事故に巻き込まれるかもしれない心配はあったが、状況 が少しでも改善されるのであれば、そのリスクは取ろうと思った」。

章子さんはメゾネットのマンション2階でギャラリーを経営してい たが、数カ月閉めてアサヨさんが行くところにはどこにでもついて行っ た。「よく運動するからダイエットにもなる。いつも歩いていると、近 所や店の人たちが助けてくれるようになった」と章子さんは言う。

母娘が暮らすビルの管理人の浅井重雄さん(75)は、エレベーター に乗り降りするアサヨさんをモニターで見つけると、管理人室に呼んで 世間話をする。会話の後は落ち着いて笑顔で部屋に戻っていく。浅井さ んは他の入居者にもアサヨさんの病状を説明。アサヨさんのことを尋ね る小学生にも事情を話してあいさつを促した。ビルの住人らはみんな理 解し手を貸すようになったという。

他人事ではない

「普通は家の中に閉じ込めて外に見せないものを、アッコちゃんは 全部外に出して見せた。それをみんな見ているから、大変そうやなと思 ってできることは手伝う。認知症は他人事じゃない。僕は外に出して好 きにやらしたらいいと思う」と浅井さんは言った。

アサヨさんが住むビルの目と鼻の先でコーヒー専門店「リヴォリ」 を32年間営む堀敬治さん(67)は、午前6時から客に提供する朝食の準 備をしながらアサヨさんを見守る。アサヨさんは肩からかばんを下げ て、九州へ帰ると言って一生懸命に歩いている。コーヒーを飲んでいか ないかと声を掛け、朝食を取るとアサヨさんは落ち着き会話が弾む。そ のうち、母親がいないと気づいた章子さんが店に探しに来る。

堀さんは、2人が道の真ん中で口論をしているのを見て同情し助け るようになった。「いつも一緒に歩いて追っかけて、娘さんはすごいし 大変だと思う。逆に娘さんが一緒にいないと心配になる。こちらも仕事 や生活があるからそのリズムを崩すことはできないけど、その中では助 けてあげようと思う。大丈夫かなと思って気にかけて見ている」と話 す。

気持ちの良い距離

近所の人や飲食店で働く人たちが母親を受け入れ、深入りせず、気 持ちの良い距離から見守ってくれていると、章子さんは言う。徘徊(は いかい)していても親切に道を教えてくれたり、警察まで連れて行って くれたりする。近くには午前6時から午前3時までの時間帯に営業して いるレストランやカフェがたくさんある。

自宅から3キロ圏の交番や警察署にはたいてい世話になっていると 章子さん。申し訳ない気持ちでいたところ、ある警察官にお母さんのこ とは「任せておけ、安心しろ」と言われ、それが一つの転機だったかも しれないという。それからは何かあれば交番に行くようアサヨさんに口 を酸っぱくして言った。警察が見守り探す。アサヨさんが交番を目指す ようになると、章子さんも安心し1人で徘徊もさせた。

米国アルツハイマー協会によると、認知症患者の10人に6人は名前 や住所を忘れ、自分がどこにいるか分からなくなる。英国ロンドン大学 のユニバーシティー・カレッジ・ロンドンのスティーブ・イリフ教授 (高齢者プライマリーケア専門)は、監視のない徘徊は危険だが、興奮 する患者を散歩によって落ち着かせることができると言い、「歩くこと は健康に良く、不安行動を和らげ、睡眠を手助けする」と話す。

賛否両論

単独での徘徊には賛否両論ある。多くの医師は患者が1人で出歩き けがをするリスクを嫌がるが、ソーシャルワーカーは患者がやりたいこ とを安全にできるようにする努力をするべきだという意見を持つ。

「認知症が進行し自己意思決定する能力を失うと、周りが本人の利 益を考えて行動してあげなければいけない。そこで最優先されること は、老人ホームのドアを施錠して閉じ込めてしまうことかもしれない し、必ずしもそうではないかもしれない」とイリフ教授。「自分の家が 思い出せない、分からない人に対し、どこまでのリスクを許容できるか を判断することだ」とイリフ教授は話す。

章子さんにはもう一つ取ったリスクがある。アサヨさんが服用して いた数え切れないほどの薬をやめたのだ。アルツハイマー病や糖尿病、 高血圧、高脂血症、血栓などの薬だ。漢方薬もあった。驚いたことに、 薬をやめるとアサヨさんが穏やかになった。「記憶はなくなるかもしれ ないけれど、それよりも母の興奮が収まった方が、私たちの生活はより 楽になった」と章子さん。

薬の副作用

現在は高血圧、高脂血症など数種類の治療薬を服用している。アル ツハイマー病の進行を遅らせるため頻繁に処方されるアリセプトは服用 していない。米ミネソタ州のメイヨークリニックによると、アリセプト は20%の患者に嘔吐(おうと)や下痢などの副作用を起こすという。副 作用がアサヨさんの興奮や暴力を引き起していた可能性もあるとイリフ 教授は指摘する。「認知症患者は自分の体が体験していることを理解で きず、表現できない。章子さんの選択は正しくとても大胆だ」と述べ た。

だからといって毎日の散歩が容易になったわけではない。一番ひど いとき、アサヨさんは12時間続けて家を出たり入ったりし、近所の高級 イタリア料理店に入って娘を泥棒と呼び、警察を呼んでくれと叫んだ。 章子さんは、真っ青になり暴れる153センチ、45キロの母をレストラン の警備員と一緒に引きずりだした。

思い出の場所

アサヨさんは、マンションから5キロほど西の春日出という地区に 向かおうとする。独身時代に住み込みで看護師として働いた思い出の場 所だ。北九州の門司にも行こうとする。

アサヨさんは1927年、門司で4人の末っ子として生まれ、大阪に出 て看護師の資格を取った後、春日出にある親戚のクリニックで働き、負 傷した兵士や、梅毒に感染した女性を手当てした。タクシーを拾ってこ うした場所に行こうとするが、現金がないので最終的に警察に連れて行 かれる。最高5000円の乗車料金を払ったと章子さんは言った。

家族が介護に奮闘する中、民間企業でも顧客に手を差し伸べ、独自 の支え方を育んでいる。総合小売りのイオンやゆうちょ銀行では、販売 員やフロア係が認知症患者の行動の特徴を学んでいる。全国キャラバ ン・メイト連絡協議会の運営事務局によると、全国では、小売りや銀行 などの民間企業含めて約540万人を超える人たちが認知症講座を受け た。

「地域にいる認知症患者は生活者」と話すのは、同協議会でサポー ター講座を運営する菅原氏。「年金を下ろしに郵便局や銀行に行くし、 食料品を買うのにスーパーに行く。スーパー、理髪店、八百屋、魚屋、 コンビニ、マンション管理など地域全体を巻き込んで啓発をして見守り を展開しないといけない」と話す。

同じ買い物

イオンのグループ環境・社会貢献部の塚田公香マネージャーによる と、認知症の顧客は、同じ物を繰り返し購入したり、会計前に財布を見 つけられなかったりするという。支払いせずに商品の封を切って食べた り、ショッピングモールで迷子になったりしてなかなか見つからないこ ともあると塚田氏。イオンは2007年から認知症教育に取り組み、現在で は国内従業員40万人の1割が講座を受けたという。

金銭を取り扱う銀行にも苦労がある。東京の八王子長房郵便局で、 局長を20年務めた浅原ユリ子氏によると、現金自動預払機(ATM)の 暗証番号を忘れたり、現金を引き出したこと自体を覚えていなかった り、1日に何度も通帳を紛失したりする高齢者が増えているという。

みずほフィナンシャルグループ広報担当の塩野雅子氏によると、同 社では銀行のフロア係1400人が認知症講座を受けたという。住友生命保 険相互会社も4万人の従業員のうち4分の1が講座を受けた、と広報担 当の岩口和洋氏が述べた。

攻撃的

米国アルツハイマー協会によると、認知症患者は物理的な不快感や 人混み、知らない人たちに対して攻撃的になる。アサヨさんほど進行す ると、施設に送られ、興奮を抑えるために薬剤を投与されることもあ る。厚労省研究会の調査によると、日本では認知症患者の12%が入院し ている。かかりつけ医、看護師、老人ホームでさえも、異常行動を持っ た認知症患者とうまく付き合うアドバイスができなかったり、人材不足 だったりするためだ。英国やフランスの入院率は1%以下と低い。

医師は認知症患者の興奮を抑えるために、抗精神薬を投与すること がある。たとえば、ブリストルマイヤーズが販売するエビリファイや、 アストラゼネカが販売するセロクエルなどだ。患者が自分自身を傷つけ ないように、また介護者の身の安全を守るために使用すると、メイヨー クリニック・アルツハイマー病研究センター長のロナルド・ピーターセ ン氏は言う。

英国と違い、日本では意思決定能力を失った人や、介護者を保護す る法律がないため、損害賠償請求をされることもある。91歳の認知症男 性が列車にはねられ鉄道会社に発生した損害について名古屋高裁は4 月、妻に賠償を命じる判決を下し、「認知症の人と家族の会」に失望を 与えた。アサヨさんの場合、幸運なことに外で大きなけがには至ってい ない。転んで顔を切り、青あざを作った程度で済んでいる。

アサヨ劇場

アサヨさんは新たな人生を楽しんでいるように見える。徘徊をして いないときは、レストランやバーで家族や親戚の話、一緒に働いていた 医師や看護師の話、娘の恋愛話をあれこれして楽しませている。時には 女性にはボーイフレンドや夫の話を聞きたがる。実話であれ作り話であ れ、聴き手は大笑いし、口が達者な母の話は一段と弾むと章子さんは言 った。

「人に注目されているとうれしくて、無視されるとすねて帰ろう、 帰ろうという。外に出ると、女優アサヨ劇場、その場に任せて嘘八百を 言う。こんな面白くて可愛い母を見たことがなかった、知らずにいたか と思うと恐ろしい」と章子さん。

今夏のある日、デイサービスから帰宅後、章子さんがケアマネジャ ーに相談をしている間に、アサヨさんは世話になりたくないから出てい くと言い出した。部屋を歩き回り、2階のギャラリーへの階段を上り下 りし、死んだ愛猫ジェフの名前を呼びながら、山の方に住む友人のとこ ろへ行く、腕に自信があって仕事が得られるから心配無用、出してくれ と叫び始めた。

午後6時40分ごろに章子さんが玄関の扉を開けると、湿気と熱気が 残る街に飛び出した。ワイシャツ姿のサラリーマンが仕事帰りの一杯の ため並ぶ飲み屋街を歩きながら、アサヨさんは娘を泥棒と呼び、どっか に行けと叫んだ。見知らぬ人の腕を平手打ちし、乗用車やトラックで混 雑する道路の信号を無視して横切り、どんどん歩いて行った。

ボーイフレンド

40分ほど徘徊したあと、アサヨさんはレストランに入って休むこと に同意。シロップを入れたアイスコーヒーをストローで飲み干し、マル ゲリータピザのトッピングだけを箸でつまんで食べた。外に立っていた ウエーター2人を娘のボーイフレンドだと指差した。章子さんと帰宅し たの午後8時ごろだった。

「認知症は言うことを聞かない子供が一人増えたようなもの」と章 子さんは笑う。「病気がどんなものか分かるまでが一番大変。進行する とまた行動パターンが変わる」と6年の同居経験を語る。「介護者は自 由という犠牲もあるけど、メリットもたくさんある」とも話す。新しい 生活から思いがけなく得たものは、近所の人たち、レストランの店主、 警察官らの新しい友人だった。

アサヨさんの介護で、独身の章子さんの生活は180度変わり、母を 中心に回る。午前8時に母親を起こし、デイサービスに送り出す。その 間、仕事、掃除、買い物を済ませ、アサヨさんが帰宅すると晩御飯を作 り、母親のとめどない話や徘徊に付き合う。

成長

同居前の章子さんは「独身を謳歌(おうか)して、好きなことをし て、時間もむちゃくちゃ」な生活だったという。母親を介護していると 自分のやりたいことをあきらめ始め、自分のための欲望もなくなった。 「母が私の生活に入ってきたことで、言いたくないけど成長させてもら った。接点がなかった人たちと仲良くなって、親切にしてもらった。こ んなにいい人たちがたくさんいると気づいた」と話す。

アサヨさんは時々、着替えを拒んだり、服を逆さまに着たり、下着 に粗相をしたり、キャンディーを食べ過ぎたり、歯を磨いたと嘘をつい たりする。章子さんはほとんどアサヨさんがやりたいようにさせてい る。

「先の人生がある子供でなく、残りの命は短い。そうなら清潔にす ることに努めて、あとは楽しく暮らしたらいい。向こうのリズムでやっ て完璧にしようとしない」のが秘訣という。「ママは過去は忘れて先も 心配しない、今を生きている。喧嘩(けんか)しても次の日全部忘れて 可愛いらしいママになるから、私がどれだけ腹が立っても忘れることに した。だって引きずっているほうが損だから」。章子さんがたどり着い た結論だ。

母と娘の物語

日本政府は認知症患者に優しく、普通に暮らしができるような社会 を目指している。2012年に認知症施策推進5カ年計画(オレンジプラ ン)を発表し、認知症が長く地域で暮らしていけるようなアプローチを 取り入れた。

14年度政府予算では同計画に32億円が計上された。西欧諸国が発表 した認知症対策への投資額と比べるとまだ少ない。人道的でよりコスト のかからないなケアを推進するという概念を掲げた日本政府の政策がど こに行き着くのか、今後どれだけの道のりがあるか。アサヨさんの物語 から垣間見える。

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