流刑の島・隠岐に若者の移住者続々、多彩な人口減少対策で

時の権力者が政敵を流した島として 日本史上に名高い隠岐。後鳥羽上皇が流されたこの日本海に浮かぶ島が 今、本土の若者たちを引き付けている。同島の海士町が留学生受け入れ など、あの手この手の人口減少対策を打ち出しているためだ。

日本創生会議・人口減少問題検討分科会(座長・増田寛也元総務 相)の30年間で全国約1800の自治体のうちほぼ半数の896自治体が消滅 する恐れが高いとする報告書が反響を呼び、各地方自治体は独自の対策 を迫られている。

一番近い島根県の港からフェリーで3時間かかる隠岐の島の海士町 は赤字削減、海産物の輸出、地元高校のレベル向上などの対策で人口減 少に歯止めをかけようとしている。この取り組みは安倍政権や遠くオー ストラリアの教育者たちの注目を集めている。

明治大学公共政策大学院ガバナンス研究科の田中秀明教授は海士町 のケースについては「困ったから本気になれた。多くの自治体にとって は現状の方が楽」とし、安倍政権による地方活性化対策など政治にでき ることは限られていると指摘した。

破綻への道

市町村の合併が国主導で進む中、単独町制を決断した後の2004年に 山内道雄町長は厳しい決断を迫られた。国への債務101億5000万円を抱 え、海士町は破綻への道をたどっていたのだ。町の人口は戦後、約7割 減少し2400人以下となったうえ、5人に2人は高齢者だ。それにもかか わらず、町は公共事業に予算をつぎ込んでいた。

山内町長は電話インタビューで行政改革を決意した経緯について、 「行財政改革から始めよう、無駄を省く、どれだけサービスダウンせざ るを得なくても。自ら賃金カットすることが説得力ある」と説明した。

現在76歳の町長は1期目の任期中の04年に30%の賃金削減を断行。 その後、削減率を50%に引き上げた。町の職員も最大30%の賃金削減を 受け入れたほか、自治会も補助金を返却し始めた。町のスローガンは 「ないものはない」だ。

海士町はその後1年間で2億円の歳出を削減し、07年に日本で初め て地方自治体として破綻した北海道夕張市の運命を免れた。過去約10年 間で国の債務が膨らむ中で、海士町は借り入れを約30%削減した。

三井住友アセットマネジメントの宅森昭吉チーフエコノミストは、 町長の給与削減だけが海士町の教訓ではないとし、地元の特性を生かし 特産物の販売拡大、若者の移住促進などに集中したことが重要と指摘し た。

率直さが決め手

島への移住者は300人超。大半の移住者たちは20-40歳代。藤井徹 (44)・優子(46)さん夫妻は05年に2人の子供を連れて長野県から島 に移住した。藤井さん夫妻が島への移住を決意させたものは海士町役場 の職員の率直さだった。

優子さんは「提示された給料も安かったし、私も仕事がないといけ ないし、子供を保育園で預かってもらえるのか不安はたくさんあった」 と明かす。それが移住につながった「一番の理由は一つ一つ不安をクリ アしてくれて、いい点だけでなく、不便さ、買い物とか医療面、など悪 い面も教えてくれた。島に着いて、こんなはずではなかったということ がなかった」という。

優子さんは町役場ですぐに仕事が見つかり、徹さんも第3セクター 「ふるさと海士」の設立に携わった。3番目の子供も生まれた。

ふるさと海士の従業員は約30人。地元の海産物の販売先を上海、ド バイ、米国に広げた。山内町長は氷の結晶化を抑えるCASと呼ばれる 冷凍システムに投資したことが海外の販売先拡大につながったと述べ た。

ふるさと海士は5年間、黒字を続け売上高は約2億円に達してい る。ウェブサイトによると、魚、いか、カキのほか隠岐牛の販売が事業 の中心だ。

総務相と豪駐日大使の訪問

オーストラリアのブルース・ミラー駐日大使は5月、新藤義孝総務 相(当時)は6月に海士町を訪問した。2人の訪問先には隠岐島前高校 も含まれた。同校も若い人たちを島に引き寄せる対策の一つだ。

海士町は外部から教師を招き、カリキュラムを一新した。日本の有 名大学への進学コースを設けたほか、将来の町のリーダーを養成する特 別クラスを始めた。その結果、08年には在校生90人、入学者数が過去最 低の28人と廃校寸前だった同校の在校生は今年、140人に増えた。現在 の新入生の40%以上は東京、大阪など本土からの留学生だ。

5年前にはがらがらだった56人が定員の寮は、現在満室。11年度の 卒業生の一人は早稲田大学に進学した。

ミラー大使は学校訪問後、島前高校とオーストラリアの学校をイン ターネットでつなぐのはどうかと提案した。新藤氏の訪問は、海士町を 地域活性化モデルケースに選定したことを受けてのものだった。

山内町長は「行政がもうけることはあり得ない、役場はつぶれない というのは、今や神話ではなくなった」と語った。

1221年の承久の乱で鎌倉幕府の討幕を図った後鳥羽上皇は完敗し、 幕府によって隠岐の島に流された。歌人としても有名だった上皇は短歌 で島には都から風聞も伝わらないと嘆いた。

--取材協力:大久保義人.

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