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野村営業マン奮闘記、1600兆円の個人資産に照準-放て希望の矢

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2013年、日本の株式市場は先進国で ベストパフォーマーとなった。その裏には顧客に会うため電車に飛び乗 り、人波をかき分けて歩く営業マンの姿がある。上田謙佑(31)もその 一人だ。

秋晴れのある日の東京。野村ホールディングスの上田は顧客訪問の ため地下鉄を次々乗り継ぎ、駅の階段を一段抜かしで駆け上がってい く。携帯電話には企業経営者などから日本株の買い注文が入る。昼食の 時間はあるだろうかと、愛用のゼニスに目をやる。天頂に輝く星をシン ボルとしたその時計は一秒間に十回時を刻む。

野村証券のトップセールスマンの一人である上田は、ゼニスのエ ル・プリメロをつけている理由について「スペイン語で、一番星という 意味があるそうです」と、普段は滅多に見せることのない笑顔で答え た。そして照れながらこう言った。「やはり一番になりたくて」--。

上田も、彼のライバルである大和証券グループ本社や三菱UFJフ ィナンシャル・グループの証券子会社などで働く営業マン達も、ビジネ スの環境が好転したことを実感している。安倍晋三氏が昨年12月に首相 に就任後、長期にわたるデフレと景気低迷からの脱却を命題とする「ア ベノミクス」を受けTOPIXは約40%上昇している。

米ハーバード大学アジア・センターの上級研究員で、2001年までは 野村の香港で主任地域ストラテジストを務めた経験を持つウィリアム・ オーバーホルト氏は「野村にとってリテールバンカー達は強さの中核 だ」と指摘。「彼らは素晴らしいプロフェッショナル集団で、確立され たマーケットシェアを持っており、グローバル経済の景気循環にかかわ らず、確実に収益をもたらす」と語った。

国内最大手の野村が10月29日に発表した決算では、4月から9月の リテール国内営業(個人向け取引)から生じた税前利益は1211億円と前 年同期の5倍以上に拡大、利益全体の65%を占めていたことが分かっ た。大和証Gの経常利益も4倍以上に拡大して589億円となった。

外国勢の競合不在

日本ではゴールドマン・サックスやJPモルガンなどの外国証券が 日本企業の公募増資の引き受けやM&A(合併・買収)の助言、トレー ディング業務で活躍を見せるが、リテール市場での存在感はない。これ も野村が圧倒的な強さを持つ理由だ。こうした中、モルガン・スタンレ ーは三菱UFJと合弁で営む証券事業が上期の営業収益(単体ベース) で野村、大和、SMBC日興証券に続く4位を確保。富裕層業務でも年 明けから協業を強化することで合意しており、今後競争は厳しくなる。

リテールを中心とする野村の国内営業の収益全体への貢献とその業 務の重要性は、08年に野村が経営破たんしたリーマン・ブラザーズの欧 州とアジア業務を買収してから5年がたった今、ようやく注目され始め てきた。リーマン危機以降も野村の国内営業部門は一度も赤字を計上し ていない。

グローバル市場でビジネスの拡大を模索していた野村は、リーマン から約8000人を継承したことで海外での人件費が膨らみ09年3月期には 過去最大となる7082億円の損失を計上、海外ではその後赤字が続いてい た。そうした中、赤字を埋め合わせるかのように日夜営業活動に励んで いたのは上田ら7000人近くいる国内営業マン達だった。

高額の給与やボーナス得ていた欧州やアジアなど海外のバンカーや トレーダーに比べれば、リテール営業マンの給料は低い。それでも毎日 電話をとり、客先へ足しげく通い、債券や投資信託の販売に汗を流し た。10年には法人担当バンカーらが次々に引き受けてくる金融機関の公 募増資株式をさばき続けた。しかし、海外業務での赤字ばかりが目立 ち、彼らにスポットライトが当たることはなかった。

靴炭の跡

日本株は5月にピークに達し、現在は上昇相場は一服している。し かし上田は言う。「今のマーケットはチャンス。リスクをとって買いに 入ってもいい。アップサイドはあり得る」--。TOPIXは5月22日 に4年半ぶりの最高を記録したものの、消費増税が世界第3位の経済の 回復を遅らせるとの懸念などから、その後は約8%下落した。

上田の顧客訪問数もこの一年でだいぶ増えた。昨年は富裕層や企業 経営者など、週に10人程度訪問していたが、今は15人程度となった。担 当する顧客数は現在180と昨年の100から大きく増加。これまで長い間、 株を勧めても取引をしなかった顧客が、今では「面白そうに話を聞いて くれる」という。

新宿野村ビル支店のウェルス・マネジメント課で課長代理を務める 上田の一日は忙しい。未明の3時に一度起きニューヨークの市況を確 認、6時10分には起床する。7時半に出社すると、手にすっぽり隠れる サイズの使い慣れた紺色のカッターナイフで新聞記事を次々と切り抜き スクラップしていく。デスクに置いてある2台のコンピューターパネル には海外通信社から配信されるヘッドラインが流れ、世界の為替動向を 示すモニターが慌ただしく動く。

その後は午前8時半までに海外市況の動きや前日の顧客訪問で得た 情報などを共有する複数の会議に出席。席に戻ると、その日使うプレゼ ンテーション資料をデスクのキャビネットから取り出し、ジェラルミン 製のアタッシュケースにしまう。鞄を開け閉めする音がフロアー中に響 く。一番下の引き出しには黒い靴炭の跡が無数に着いている。時間節約 のため足で引き出しを閉じているからだ。

環境は様変わり

大胆な金融緩和や財政出動、規制改革などの成長戦略からなるアベ ノミクスが動きだすと国内景気の拡大傾向は鮮明になった。国内最大手 のトヨタ自動車は11月6日、14年3月期の連結純利益を従来の予想よ り13%上方修正し、1兆6700億円となる見通しだと発表した。実現すれ ば08年3月期の1兆7179億円の過去最高に迫る水準となる。

上田は個人投資家の投資意欲や今の自身の仕事について、「投資家 センチメントは間違いなく改善している。一年前と全然違う」という。 昨年は顧客開拓に追われていたが、今はそれに加え、投資提案を考える ことに多くの時間を費やすようになったという。

野村は、昨年8月に永井浩二最高経営責任者がCEO就任後に設定 した顧客資産残高目標の90兆円を今年の4月に突破し、5月には16年3 月までに100兆円を達成するという新たな目標を掲げた。

JR新宿駅

9月のよく晴れたある日。身長183センチメートルの上田は光沢の あるブルーのスーツに身を固め営業に出た。野村の営業担当者はそれを 「外交」と呼ぶ。気温が30度を超える中、JRや地下鉄を次々に乗り継 いで顧客を訪問する。タクシーは使わない。電車と徒歩の方が時間に正 確だからだ。移動中は常に小走りだ。

オフィスを出てJR新宿駅に向かう途中、上田の携帯が鳴った。あ る大企業のオーナーが日本航空(JAL)株とスリー・ディー・マトリ ックス株をそれぞれ1万株ずつ買いたいという。上田は「ありがとうご ざいます。すぐに折り返します」と電話を切り、すぐさま支店に電話を した。現在の株価の推移や顧客の口座について照会するためだ。

その顧客は08年のリーマンショック以降、野村に発注することはな かった。上田は長い間取引がなかった投資家に注目し営業活動をすると いう戦略をとっていた。「申し訳ありません。この場でオーダーを出し たいのですがお預かりがないためトレーディングできません。ご入金い ただけますでしょうか」と上田は告げた。翌朝10時過ぎに上田は再びそ の顧客に電話をかけ、入金を確認したことと約1億円規模の売買が完了 したことを報告した。営業努力が実った瞬間だった。

上田はその日、6顧客を訪問。移動中も寸暇を惜しんで電話をし た。ズボンの右ポケットに入れている折り畳み式の携帯電話の発信履歴 は31件だった。オフィスを出てから8時間、ドーメルの仕立てのスーツ の上着を一度も外すことはなかった。昼食もとらず水も飲まない。よう やく自販機で買ったジャスミン茶に手を伸ばしたのはオフィスに戻った 午後5時15分だった。しかしデスクの電話が鳴ると、蓋を開けかけてい たペットボトルを元に戻した。

悪夢

上田は慶応大学法学部を卒業後05年に野村証券に入社した。以来、 約180人いる同期の中でも営業成績はトップクラスだ。日本株が下落 し、売買高も大きく落ち込んだ10年、上田は収益や資産純増で優秀な成 績を収めCEO賞を受賞した。彼は口数は少なく謙虚だが自信に満ちて いる。そしてこう断言する。「自分が自信のないものをお客様に勧める ことはありません」--。

しかし大きな失敗や挫折も経験した。慶応義塾高校時代弓術部(弓 道部)の主将だった上田は2年の冬の神奈川県大会で、自分が外さなけ れば全国大会進出という場面で、彼の放った4射目の矢が僅かに的をそ れた。普段外すことはないという。失敗の原因は、絶対に勝たねばなら ないという気持ちと、準備不足による自信の揺らぎからくる緊張だっ た。稽古を十二分にしたつもりでも、これ以上努力できなかったかと問 い質した時、心に僅かな不安がよぎった。

その教訓は今生かされている。顧客訪問の前には念入りに準備をす る。約束の時間に遅れないよう、最短で乗り継げる地下鉄経路などを調 べておく。株価のチャートはカラーで印刷し、会話の流れによって推奨 銘柄を変えられるよういくつも代替案を用意する。こうした準備が自信 となり表情に出るという。高校時代の挫折から4年、猛稽古を積んだ上 田は慶応大学弓術部の副将として全国大会の個人戦で優勝を果たした。 上田は今でも時折、弓が的をそれる悪夢で目覚めることがある。

起爆剤

周到な準備。それが今の上田を支えているのは言うまでもないが、 日本の株式市場の活況も大きな支援材料となっている。証券ブローカー は過去15年間デフレのため現金をしまっておいた個人がリスクを取るこ とに寛容になってきている今、顧客への提案方法を変えている。上田は 「昔は相続や税金や自社株のマネジメントの話から入っていったが、今 は株から入る」という。

日本銀行の統計によれば、6月末時点の家計部門が保有する金融資 産残高は1590兆円で、株式などの保有残高構成比は8.1%に増加し、過 去5年半で最大となった。安倍氏が首相に就任した時は6.8%だった。 しかし依然として日本の家計は現金・預金の構成比が54%と最も高い。

ジェフリーズ・グループの東京に在籍するアナリスト、マカリム・ サルマン氏は10月23日のレポートで、安倍政権が打ち出した少額投資非 課税制度(NISA)のため「世帯の資産がキャッシュからエクイティ にシフトするとわれわれは確信している」と述べた。

野村の永井CEOはブルームバーグ・ニュースの取材に、「1500兆 円を超える個人金融資産の活性化は、わが国の持続的成長に向けた重要 なテーマの一つである。NISAはその起爆剤となる可能性がある」と 述べた。野村は9月末時点で100万口座の申し込みを受領したという。

ローマ皇帝の格言

そして今、国民の景気回復への熱狂は安倍首相が5%から8%への 消費増税を決めたことをきっかけに冷めかけている。ハーバード大のオ ーバーホルト氏は「安倍氏の景気刺激策が成長を産み出しているうちは 市場も金融機関も恩恵を受けるだろう。しかし、究極的には第三の矢で ある構造改革が成功するかどうかが、日本が持続的成長を得るのか、は たまた悲惨な金融崩壊が起こるかを左右するだろう」と述べ、「今のと ころ三本目の矢にはバイアグラが少し必要なのでは」と語った。

いかなる結果が訪れようと、「前後裁断」が座右の銘である上田は 今を生き続けるだろう。2010年の10月のある日、大阪のとある駅で彼は 倒れた。搬送先の病院で医師から脳腫瘍の疑いと告げられた。衝撃が上 田を襲った。幸いなことに、その後の診断の結果で一時的にできた血栓 が原因だったと判明。しかしそれ以降、上田は命の大切さを実感し、一 日一日を、一秒一秒を精一杯生きることに決めた。

新宿野村ビル支店の上田のデスクには、20以上の偉人の格言が貼っ てある。作家のマーチン・ファーカー・タッパー、プロボクサーのモハ メド・アリ、哲学者のエリック・ホッファーなど。古代ローマ皇帝のマ ルクス・アウレリウスは上田に毎日こう呼びかけている。「人生のあら ゆることを、それが最後だと思って行いなさい」と。

「将来得られる報酬や、過去の失敗にとらわれて生きていきたくな い」と上田は言う。「弓を射るとき、的にあてたいとか勝ちたいという 欲があると体が硬くなり弓を引く上で邪魔をする。仕事も同じ。将来の 結果や過去のことにとらわれず、今この瞬間に集中したい」。

野村には上田のような営業マンが7000人いる。そして日本には8万 人を超える証券マンが全国各地にいる。

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