南相馬を見守る白狐:津波止めた稲荷神社の神使-二百年の時を超えて

大津波は人、車、家、飲食店、そし て街もろとも飲み込み、勢いを増して海岸からおよそ1キロ離れた稲荷 神社へ向かった。祭られている2頭の白狐の石像を押し倒すと、そこで 途絶えた。その神社は生と死の境界線となった。福島県南相馬市原町区 北萱浜(きたかいはま)の物語である。

2011年3月11日、2時46分、マグニチュード9.0の大地震発生。 津波発生が警告された。「在宅していた人は外に出て海の様子をうかが っていたが、見たこともない黒いうねりが押し寄せると、着の身着のま ま車に飛び乗り、津波の襲来と競争のように逃げる。半信半疑で海を見 つめていた人は逃げ遅れ波にさらわれた」(5月22日付北萱浜地区の住 人作成のメモより)。

あれから1年。北萱浜出身の林一重さん(67)は、色あせた赤い前 掛けを巻いた白狐を撫でながら「なぜここから先が無事だったのか不思 議だ」と語った。すぐ近くにある公園の鉄棒は折れ曲がり、3台のブラ ンコは飴が溶けたように絡まり合っていた。しかし白狐を境に、その後 に建つ社(やしろ)は無事で、周辺の木々や民家もそのままだ。林さん は「まさか白ギツネが守ってくれたのでは」と振り返る。

「奥相志」

北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に 起きた天保の大飢饉(1833-1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の 安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという。 また、南相馬市博物館によると、天保時代に北萱浜に「白狐が棲みつい たので村人は『相学稲荷』と呼んで祭祀をした」と「奥相志」に記され ている。

これらの伝承や古文書によれば、稲荷神社の白狐は約200年前から 南相馬を見守っていたことになる。天保の大飢饉では洪水や冷害に襲わ れた東北地方の被害は甚大で、死者は推定20万-30万人に及んだ。時 の相馬藩主は壊滅した村を立て直すため、周辺地域から人を連れてきて その後10年で復興させたという。

嘉永元年(1848年)の「北萱浜村新軒取立に関する諸古文書」には 合わせて260人が越後、加賀、越前などから移り住んだという記録が残 っている。遠藤八十吉(37)、妻ふよ(33)、長女なつ(12)、二女よ う(11)、三女さく(5)の5人家族は越後から入植。他に50家族が外 部から移住して来た。いまの北萱浜の祖先たちだ。

ピンク色のリボン

京都の伏見稲荷大社によれば、稲荷神は食物・農耕の神様で、白狐 はその使者だという。同大社の広報担当者は北萱浜の白狐のルーツにつ いてはあまりに昔のことで確認できないが、「東北地方では特に信仰が 厚い。飢饉から逃れたいと思う人々のため、おそらく五穀豊穣を祈願し て連れてこられたのだろう」と話した。

南相馬市では東日本大震災で1635世帯が損壊、896人が死亡。北萱 浜では60世帯が全壊、死者は47人に上った。1年が経過し、同地区で はがれき処理もほとんど終わり何も残っていない。青い海、澄み渡った 空、海岸近くでは白鳥が群れをなす。水平線と地平線が一直線につなが るほどの広大な更地には所々、四角く囲った地面にピンク色のリボンが 風でたなびく。端午の節句時には鯉のぼりが泳いでいた。そこは子供た ちが亡くなった場所だ。

北萱浜の林さんの孫娘の千賀子さん(17)は津波で亡くなった。彼 女の父親も父方の祖父母も飲み込まれた。彼女がアルバイトしていたロ ーソン鹿島町横手店の佐藤大守介オーナーは5月に千賀子さんの家族 の葬儀に参列したが、「遺影が4つ並び、南相馬でさえもこんなに悲し い葬式はほかにないと思った」と言う。林さんは亡くなった4人の親族 が愛した南相馬を復興させなければと農地等復旧推進委員の代表役を 引き受けた。林さんを含む平均年齢60歳の男たち30人は9月以降、毎 日がれきや側溝の土砂の除去、草刈りなどの作業を続けている。しかし 覇気がない。時折休んではタバコを吸う姿ばかりが目につく。

「われわれにもできる。再出発だ」

北萱浜に広がる100ヘクタールの土地を見渡し、林さんは「かなり 広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛ん でいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。しかし 「200年前にも同じ光景がここにあったかと思うと胸が熱くなる。先祖 がゼロから土地を耕し、田んぼを作り、収穫できるようになった苦労。 われわれにだってできるはずだ。再出発だ」と気を取り直す。

福島原子力発電所から25キロメートル圏内の南相馬。津波と原発 事故の二重被害を受けた。多くの若い世代が家族を連れてこの土地を離 れている。全人口は3月11日時点で4万3622人と一昨年前の7万1561 人から4割減少した。除染作業、防災林や農地の造成、再生可能エネル ギー基地や工業団地の設立など、億単位のカネと10年単位の時間がか かるだけに、復興の道程は果てしない。

ブルームバーグ・ニュースは入手した1848年の入植者リストに林 さんの祖先を見つけた。当時43歳の林喜祖八(はやし・きそはち)。妻 子と5人で加賀(石川県)から北萱浜に入り、天保の大飢饉で荒廃した 村の復興に携わった。一重さんにそれを電話で告げると「喜祖八の名前 が古文書に残っていたとは感激だ。子孫の自分が200年経った今、当時 と同じ光景を目の当たりにし、復興という同じ試練に立ち向かっている と思うと感慨深い。勇気が沸いてくる。どんなに苦しくても復興をやり とげたい」と語った。

200年の時を超えて

津波発生当時、稲荷神社の白狐は津波になぎ倒され、石像を支えて いた重い石の台は流された。後日その石台は回収され、石像は修復され た。接着に使われたセメントがまだ目新しい。「おまえ、あの神社には 本当に白ギツネがすんでいるよ」。村人の多くは幼いころ祖父母からそ う言われて育ち、神社は人々の憩いの場所でもあった。

いまその場所に、津波で流された47人と避難所で死亡した6人の 安らかな眠りを祈り慰霊碑を作る構想が浮上している。だが、年金生活 者が多い北萱浜の人たちにとって100万円の設立費用の捻出は決して容 易ではない。しかし、自分の命より大切な最愛の家族をなくし、生きる ことの意味を失いかけた遺族たちには誰かに「助けて」という言葉は見 つからない。

南相馬の白狐たち。一頭は口をつぐみ、もう一頭は赤い口をわずか に開けている。「阿吽(あうん)」。長い歴史の中で、何も語ることな く人々の苦楽をただじっと包み込んできた。寄り添うように海を遠くに 見つめる。復興の道のりは長くとてつもなく険しい。白ギツネは静かに 見守る。これまでも、そしてこれからも。200年の時を超えて。

--取材協力:平野和、山崎朝子、小野満剛(東京)Editor:平野和

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